浜井建築デザイン


浜だより 2009/8月「 双子誕生!!」
200987日金曜日

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こんにちは、
浜井(イン・マンハッタン)です。
今月も元気に働いています。

7月28日深夜(日本時間:7/28-火、午後)、双子が誕生しました。

予定日が9月21日でしたので、2ヶ月早い出産でしたが、母子共に健康です。

生後10日経ったものの、まだ親になった実感はありませんし、
看護婦さんに「ダディ(お父さん)」と呼ばれると、

「いやいや、それほどのものでは、、」と、

少し気恥ずかしいやら、恐縮しまいます。


オヤジの初仕事

オヤジの初仕事は「ひだり足押さえ係」でした。

未熟児かつ双子のため、出産は分娩室ではなく、本格的な手術室で行われました。
産科医、小児科医、麻酔科医、看護婦などフルメンバー総勢11名。

父親は、できれば出産に立ち会いたくなかったのですが、
手術室の前で、看護婦さんに「ダディ、これ着て。頭はこれ。足はこれ。」と、
当り前のように手術服を着させられました。

女医さんも「カメラの準備はできたぁ? バッテリーOK? エキサイティングねぇ~!」
と、ノリノリです。

手術室では、母親の頭の横に椅子が与えられ、私はそこに座りました。
でも、それもつかの間、すぐに
「ダディは、左足を押さえるのよ~。骨盤を開くのよぉ~!」
と仕事を与えられました。

2分間隔でやってくる陣痛に合わせて、力みます。

「プッシュ! プッシュ!/ Push! Push!

中央に陣取る女医さんと、「みぎ足押さえ係」の体育会系の看護婦さんが叫びます。

「プゥッシュ! プッぅシ~ュ!/ Push! Push!
「モア~!!モ~ア~!!/ More!! More~!!
「ハダ!ハダ!ハダ!/ Harder! Harder!
「カモン!!/ Come on!!

「ラマーズ法って、、なに??」というくらい、押して押しての一点張りでした。

実は、7月中旬にラマーズ法講習(合計19時間)を夫婦で受講する予定だったのですが、
7月に入ってすぐに妻が入院したため、受講をキャンセルしたのです。19時間のラマー
ズ講習。数日間に渡る講習で気が重かったのですが、もし受講していたら何が得られ
たのか、今となっては、、本当に謎のままです。

しかし、産科医の先生は、ラマーズ法を知っていようが知るまいが、そんなことはお
構いなしのようで、とにかく、押せよ押せよの体育会系のノリでした。

「プゥッシュ! プッぅシ~ュ!/ Push! Push!
「カマぁ~~ン!!/ Come on!!

「ひだり足押さえ係」の私も、そのたびに力が入りました。

必死でしたが、ここはバックネット裏の特等席ようなものです。
バッチリと全ての決定的瞬間を見届けました。

お母さんは、痛そうでしたが。。。

お父さんも、がんばりました。


名付け

名前は、
 長男:謙舟(けんしゅう:ケン)
 次男:開路(かいじ:カイ)としました。

謙舟(けんしゅう)の「~舟」は、
地元、上野に縁のある「幕末の三舟:勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟」から取りました。

勝海舟は、江戸時代末期から明治期にかけての政治家です。江戸幕府の役人でしたが、
早くから封建社会の終焉、革命の必要に気付いた人物で、今から約150年前に、福沢諭
吉、ジョン万次郎らと共に、アメリカの民主主義を視察に来ました。

山岡鉄舟は、剣、書の達人で、倒幕側の西郷隆盛に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命
もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ」
と賞賛させた人物。高橋泥舟も幕末の武士、書道、剣の達人です。

地元の史跡などで「~舟」という名前に出会って、いい響きの名前だなと思いました
し、調べるうちに、その人物に惹かれました。

260年続いた大平の江戸時代から明治維新という「激動の日本」を動かした偉人達にあ
やかりました。


開路(かいじ)は、
双子のコンビネーションとしての音感「ケン&カイ」と、
開拓者として新天地を切り開いてほしいという願い、で決めました。

もし私が次男だったら、次の10年はヨーロッパ生活を計画したという思いがあります。

アメリカ国籍も取れましたし、将来、アメリカ人としてでも、日本人としてでも、世
界に路を開いてくれればと願っています。

ドイツ人医師の妻の上司によれば、「カイ」はドイツに多い名前だそうです。

親としては、将来、遊びに行くのが夢です。


7月は、上旬に妻が入院、月末に双子誕生。
ジェットコースターのような1ヶ月でした。

この1年ですら、あっという間でした。

考えてみれば、ジェットコースターに乗ってやって来た彼らは、
1年前、地球上でなんの存在でもなかったわけです。

そう考えると、
何十億年と繰り返し生命が続いて来たこと。
これからも続いて行くこと。
そして今、ここ、にいる自分という存在さえ、その得がたさに気づかされます。

すべてが奇跡のように思えてきます。

hamai

浜だより 2009/12月「総括-2
20091210日木曜日

NY20091115_2

こんにちは、
浜井(イン・マンハッタン)です。
一家は今月も元気に過ごしています。

2009年も、あと3週間。
今年もあっという間の1年でした。

そしてアメリカ生活も、あと2ヶ月。
8年間もあっという間でした。

この「あっという間感」は、1年も8年も変わらないようです。


さて今月は、
先月の「アメリカ生活の総括(大学院留学:80点、仕事経験:70点)」の続きです。

英語:30点

渡米前には「3年もすれば、アメリカンジョークが止まらないくらい英語がペラペラに
なるだろう」と思っていたのですが、生まれ持った素質、個体差があるようです。。

私の場合、言語能力に問題があるようで、言葉がさっと出てこないです。
日本語でも、会話の瞬発力が悪いので「hamaiは、言葉を選んで発言する」と思われて
いるかもしれませんが、とっさのコメントができないだけです。

また、渡米したのが27歳で、年齢が遅かったのも良くなかったようです。
10代に留学された人の英語を聞くと「外人さんみたいだな~」と関心してしまいます。

それと、家では妻と日本語で会話しますので「彼女がアメリカ人」という人と比べる
と、どうしても英語を利用する頻度が下がります。

そのようなわけで、英語は言い訳ばかりで、30点。

完全に赤点です。追試です。

日本に帰っても、英語学校に通うなり、日本へ来る留学生へのボランティアをする等、
英語の勉強を続けようと思います。


CPA:80点

米国公認会計士(CPA)の勉強は、就職して1年が過ぎ仕事に慣れた頃、次の目標を探し
ていた時に始めました。

日本で働いた経験から、残業は毎日2~3時間するものだと思っていたのですが、働い
て6ヶ月くらいの時、ティムに呼ばれ「給料を上げるから、残業はしないでくれ」と頼
まれました。

残業なしで6時にオフィスを出ると、6時30分にアパートにつきます。
夏なら帰宅後2~3時間は空が明るく、ビールを飲んで過ごすには時間が余ります。

毎日3時間として、1ヶ月で90時間、1年で1000時間。3年で約3000時間です。

このままアメリカに一生暮らすなら、この時間を、ゆったりと過ごせばよいのです。
しかし私は日本に帰るつもりでいましたので「これに慣れたら日本に帰って適応でき
なくなる」と思い、この時間を次の目標に使うことにしました。

考えたのは、
 1.英語力を上げる(通訳レベルを目指す)
 2.アメリカ建築士を取る
 3.経済の勉強をする(MBA?、CPA?)です。

1.の英語力は、渡米3年のこの頃には、自分の素質(言語能力)に気づいていましたし、
年齢的なこと、家での語学環境を考えると「通訳レベルは、ほぼ不可能」と判断しま
した。それに英語のできる建築家はたくさんいますので、英語力アップのため「だけ」
に努力するのはやめました。

2.のアメリカ建築士は、日本の一級建築士と基本的に同じ勉強なので、達成しやすい
と考えていました。しかし、法律用語、関連する数値を一から暗記しなければいけな
い割に、得られる知識は、自分の知識世界をあまり広げません。3000時間の時間とエ
ネルギーを使うとして、得られるものは「アメリカの建築家」という資格だけです。
日本に帰って海外の仕事をするとしても、アジアが中心になるでしょうから「日本の
一級建築士」という現在の状況で十分と考えました。

3.の経済の勉強「お金の流れを理解し、記録し、コントロールすること」は、自分が
どんな世界で働いても活きる知識という確信がありました。MBAは、経営学修士で、大
学院に通い卒業しなければいけないため仕事との両立は無理です。CPAは、必要な単位
取得のの授業を受けさえすれば会計士試験を受けられますので、私にも可能でした。

CPAの試験は4科目
「財務会計/FAR」「商法&税法/REG」「監査/AUD」「経済一般知識/BEC」です。
監査の試験は、エンロン&ワールドコムの不正会計の影響で、法律が改正されたために、
出題傾向が大きく変更され、過去問が通じません。エッセー(小論文)の比重が大きく
なったため、まさかの7回再試験しましたが、どうにか、苦節3年で全科目合格にたど
り着くことができました。

 FARスコア:68 77 失効&再受験 78/合格!
 AUDスコア:67 62 69 63 72 74 87/合格!
 REGスコア:74 74 86/合格!
 BECスコア:70 77/合格!

人には色々な幸福感があると思いますが、私にとって、幸福感とは達成感です。

これからも挑戦者として、挑戦を続けたいと思います。

もちろん次の主目標は建築です。
海外のメディアに頻繁に登場する初見研究室の先輩、三分一博志さん、ルイヴィトン
やバーバリー丸の内を設計した「浜だより仲間」の永石貴義君、住宅設計で先をゆく
小谷研一君、多くの先輩にあやかって、私も後に続きたいと思います。


子供:100点

日本に引き上げる時にアメリカ国籍の子供を2~3人連れて帰りたい、と思っていたの
ですが、なかなか恵まれませんでした。

ですので、最後の年に双子は、まさかの満塁ホームランでした。

ただし、2ヶ月の早産で妻が入院し、
生まれて来た未熟児たちは即入院、となり、一時はどうなることかと思いましたが、、

現在4ヶ月が経ち、順調に成長していますし、
アメリカ生活最後の難所を切り抜けた感じです。


人生ゲーム

高校生まで、大学受験までは、正しい答えを出すことが重要でした。
国語の試験では、本に書かれていることをどれだけ正しく読み取れるかが絶対でした。

しかし大学に入った時「読書は、あえて先入観を持って読み間違えるくらいの意識で
読みなさい。そして自分だけの世界観を広げなさい。」と言われました。

その発言をされた先生は独創的かつ精力的で、なるほど説得力がある方でした。

国語の成績は「いつも2、たまに3」だった私としては、救われた思いでした。

それ以降、世界を観察するときの自分のルールとして、

 1.なるべく多面的に判断して「客観的正しさ」を得つつ、
 2.自分の主観と偏見をもって「独自のオリジナリティ」を加える。

というルールを自分に課しました。
このメールで発信してきたことは、その一環です。

以前にも書きましたが、
 大学で見る建築、社会に出て見る建築、は違います。
 日本で見る建築、アメリカで見る建築、は違います。
 建築士として見る建築、CPAとして見る建築は違います。

どのような対象でも、上下左右、様々な方角から見ることで、
立体的に深く判断することができるはずです。

異なる視点をいくつ持つことができるか。
そして自分だけのオリジナリティを見いだせるか。

これはゲームです。

この人生ゲームは、日本に帰っても続けるつもりです。

hamai

浜だより 2009/11月「総括-1
20091113日金曜日

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こんにちは、
浜井(イン・マンハッタン)です。
一家は今月も元気に過ごしています。

気がつけば11月も中旬。今年も残すところ1ヶ月半です。
2月に帰国する我々にとっては、NY生活もあと3ヶ月となりました。

同時テロの翌年2002年に渡米し、来年2010年まで8年間。
あっという間のアメリカ生活でした。

渡米前に思い描いていた通りになったこと。そうでなかったこと。
いろいろあります。


大学院留学:80点

いま思えば、8年間の中で、留学時代が最も厳しい時期でした。
日本で大学院を修了していましたし、設計事務所で3年間の実務経験、一級建築士の資
格もありました。それに州立大は、ハーバードなどの私立のエリート大学と違って、
庶民の大学です。「問題は英語力くらいかな。。」と考えていましたが、甘かったで
す。。

確かに最初の1年は、教授が出す課題の内容がわからないほどで、英語で苦労しました。
授業をボイスレコーダーに録音して後で聞き直したり、友人のインド人留学生達に課
題内容を聞き直したりという感じで一切が五里霧中でした。授業について行くだけで
ギリギリ。夜も週末もなく、アメリカの学生生活をエンジョイするというレベルでは
ありませんでした。

しかし最大の苦労は2年目、英語ではなく、修士論文でした。
日米の大学を比較すると、日本では提案が興味深くて結論がまとまっていれば、途中
の論理はある程度の飛躍は黙認という感じ。アメリカの大学では、途中こそが大事と
いう感じで、論理構成を徹底的にチェックします。

例えば「風が吹けば、、、、、桶屋が儲かる」という論旨だったとして、結論にたど
り着く過程をすべて、隙間なく、事実や歴史に基づく根拠を用いて、自分の考えでの
説明を求められます。

逆に言うと、思考さえ積み木のように積み重ねて行けば、達した結論が突飛で不格好
でも評価されます。

なぜでしょう?? おそらく、単一民族&単一文化でやってきて、他人を説得するのに多
くの説明がいらない日本と、多民族国家で論理的説得がどうしても必要なアメリカと
の違いではと思います。

説明のために、あえて陳腐なアメリカ人像、日本人像を持ち出せば、、
アメリカ人:「あいつの言っていることは、自分の経験上あり得ない。見たこともない。
けど、説明を聞くと理にかなっている。」
日本人:「常識的に考えてあり得ない。実例/前例がないのだから、机上の空論。」
ということでしょうか。

この経験で、私なりに強く感じたことは、
日本とアメリカでは価値を置く場所が違って、
 日本では「技術力と完成度」の勝負、
 アメリカでは「発想力と論理力」の勝負。ということです。

まわりの論文を見てみると、日本は粒ぞろい、アメリカはみんなバラバラな感じがし
ます。身近なデジタル製品で例えれば、日本は、ソニーやシャープのように技術力や
完成度で非常に優れる一方、アメリカは、アップルの製品ような荒削りでも発想力に
優れる商品が多い、というような。。

どちらが良い悪いでなく、
先の見えない時代、ブレイクスルーが必要な時代には、アメリカ流。
次の時代への進むべき道、方向が定まってからは、日本流。
「両方、意識的に使い分けられる人がいたら、強いだろうな」と思いました。

ただ建築家としては、最終的には建築物という表現手段を持っているわけで、言葉で
くどくど説明するのはヤボな気が(今でも)しています。しかし、論理を隙間なく構築
する手法というのも十分に納得できましたし、論文制作で徹底的に叩き込まれました。

何度もレポートを匿名の論文評価委員会に再提出させられて、出来の悪い頭を酷使さ
せられました。考えさせられ、刺激になりました。

留学経験は、十分合格点の80点です。


仕事経験:70点

日本で、大学で建築の勉強をし、社会に出て働いた経験から「アメリカに渡っても、
大学でのアカデミックな建築しか知らないのでは片手落ちだ」という考えがありまし
たし、「ニューヨークに暮らしながら働くこと」こそが私の夢でした。
その点で、夢は叶えられたといえます。

働いたのは、所員7人のティムの小規模オフィス。自分の事務所を開くのが昔からの夢
ですから、個人事務所で働いた経験のない私としては、仕事の進め方、クライアント
とのやり取りなど、得ることが多かったです。

しかし3年が経ち、4年目くらいから「お気楽イタリアンの下で働くのも、そろそろか
な。。他の事務所で経験を広げたい」と考え、いくつかの事務所で面接を受けました
が、その願いは叶いませんでした。。

仕事内容は、土地の限られたマンハッタンでは超高層を除けば新築工事はほとんどな
いため、既存建物の改装工事が中心でした。日本では築30~40年で壊して新築するこ
とが多いですが、これからは日本でもリノベーションが増えると思われますので、
築100年でも住み続けるNYでの経験は、得るものが大きかったと考えています。

仕事経験は、転職が叶わなかったので、ギリギリ合格70点です。


長くなりましたので、来月に続きます。
hamai


P.S.
今月初め、私の母(7人兄妹の)5人姉妹が来て、NYを案内しました。
久しぶりのガイドは、観光気分で楽しかったです。

子供の頃の夏休み、大勢のいとこ達と新潟の海でお世話になったおばさん達です。
親族の数は、新メンバーの双子を加えて今や72人。毎年の一族旅行は宿貸切りです。
このNYで会うのは、とても不思議な感覚でした。

浜だより 2009/10月「新感覚」
2009108日木曜日

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こんにちは、
浜井(イン・マンハッタン)です。
一家は今月も元気に過ごしています。


双子の息子たちは、ぐんぐん成長し、
出生時と比べて2ヶ月で3倍の重さになりました。

この急成長を目前にすると、
1年前にはこの宇宙に存在すらしなかったわけですし、

君たち、ヒト科なのか。。
と思ってしまいます。


新感覚

私は、たくさん夢を設定しすぎるところがあって、

いつかは、、、
 海外で生活したい。
  自分の会社を持ちたい。
   雑誌に載る建築家になりたい。
    などなど
     などなど
      などなど。。

欲深いといえば、欲深く、煩悩が多いわけですが、
それらは行動の大きな原動力となっています。

子供については、漠然と「子供は欲しい」と思っていた程度で、
この煩悩ランキングには位置づけられていませんでした。

「できなければできないで、仕方がない」という程度です。

が、
生まれてみると、この満足感。

なんでしょう??

ヒトとして新感覚です。

これは、会社を持ちたい。雑誌に載れれば。。いといった欲よりずっと根源的で、生
物レベルの必要性から「子孫を残す」目的で、どんな生物にもDNAに組み込まれている、
とっておきシリーズの感覚なのではと思います。


街を歩けば、みなさん祝福してくれます。

 道ゆくおばさんも、「あなた、これはね、世界で最も美しいものよ。おめでとう。」
 道路工事のおじさんも「おめでとう。双子?男の子か。やったな。おめでとう!」
 若い女の子も、「オーマイガッ、小さい~!キュートね~!」

ちょっとしたヒーローです。

将来、私がどんなに大きな成功を収めようとも、
街を歩いていてこれほどまでに祝福されることはないはずです。

子供は、伏兵でした。。

私の人生設計の方針として、
漠然とでも多くの夢を設定し、それらを実現させつつ(少なくともそれに近づきつつ)、
小さな達成感を味わいながら、前進し、成長し、、、最終的には、世界のどこか気に
入った街で静かに老後を迎えられれば、と思っていたのですが、

子供が生まれ、、
すでにもう人生の達成感があります。

「やることやったな」というような。
「もう頑張らなくて、いいか。。」というような。

そんな満足感です。

hamai

浜だより 2009/9月「ウィリアムズバーグ」
200987日金曜日
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こんにちは、
浜井(イン・マンハッタン)です。
子どもたちは退院し、一家は今月も元気に過ごしています。


8月前半、妻は退院しましたが双子は入院中でしたから、夫婦2人で最後のNYの夏をエ
ンジョイしようと、子ども連れでは行かない場所へ行きました。

その1つに、マンハッタンの対岸にある「ウィリアムズバーグ」を訪れました。

NYでは、先端アートの中心地は常に移り変わります。若いアーティストやデザイナーは、
地域の家賃が上がると、安い家賃を求めて移り住むからです。

ソーホー、チェルシー、ミートパッキング、ダンボ、バワリーなどなど、NY最先端アー
トの中心地は常に変遷してきました。

東京でいえば「築地~千住~木場~...(例えば!)」というような感じで、3~5年で最
新アートの発信地が移動します。

ある地域にアーティストが集まってコミュニティができると、自然、ギャラリーが増
え、最先端ショップが増えます。家賃が高騰しますから、彼らは移動を始めます。

ソーホーのように観光地になってしまって、シャネルのような高級ブランドが出店す
る頃には、ニューヨーカーにとって魅力的な場所ではなくなっています。

創作活動には広い空間が必要ですから、アーティスト達が新天地として求めるのは、
たいていの場合、廃れた倉庫街です。

そのためNYのホットスポットは、いつも表面上、廃れていて、危険な香りが漂います。

今回のウィリアムズバーグも、その1つです。
(写真貼付します)

浜だよりの添付写真に対して、
「NYはイメージよりずっと綺麗な街ですね」というコメントを、よく頂きます。

実際には、NYには綺麗でない場所、不潔な場所もたくさんあります。

あまり意識はしていませんでしたが、当然、自分が気に入ったシーンの写真を撮って
いるわけで、結果として、自分好みの風景だけを切り取ってきたのだと思います。

大学で「大学受験までは、文章を読むときは、言葉通り正しく理解して読むべきだ。
しかし大学に入ってからは、あえて読み間違えるくらいで、自分の想像力を働かせ、
独自の世界を広げなさい。」と言われました。

国語のテストで正しい答えを出すのが苦手で、成績はいつも「2」。。良くて「3」だっ
た私としては、この言葉に救われました。いまも救われています。

どんなことも自由に解釈すればいいのです。

ですから今回のウィリアムズバーグも、hamai流です。

hamai